観応元年(1350)、出雲の国の守護である塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)が足利尊氏の執事だった高師直(こうのもろなお)の討手に追われて加古川に差し掛かったとき、高貞の部下7名が討手と戦い自害しました。
今の米田町のあたりで戦死した七騎を憐れんで土地の人が手厚く葬り、七騎塚と呼ばれていました。
その後、洪水や河川改修により、現在の称名寺の境内に移されています。