黒田官兵衛と光を巡る人々
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊前国中津城主。
孝高は諱で通称の「官兵衛」や出家後の「如水」の号で有名。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。
竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世に「両兵衛」「二兵衛」と称された。
キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。
黒田官兵衛のただ一人の妻であり、才徳兼備であったとされる。
志方城主・櫛橋氏の出身。
黒田官兵衛が生涯ただ一人愛した妻。
熱心な浄土宗信者で円応寺(福岡)などの寺院を建立した。
1627年、筑前国福岡において没、墓は報土寺(京都)、円応寺、
崇福寺(福岡)にある。
黒田官兵衛が黒田家草創期の精鋭24人を選んだものと伝えられている。
二十四騎の大半は官兵衛が姫路時代の子飼いの家臣。
黒田二十四騎の一人。加古川市野口町の生まれ。
官兵衛に仕えて佐用城攻めなどで高名を上げ、九州の陣でも活躍した。
黒田二十四騎の一人。加古川市東神吉町の貧しい農家の生まれ。
官兵衛の下僕として働き、数々の手柄を立てた。
加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家で、黒田官兵衛の推挙により秀吉の小姓頭となり、豊臣政権では重要な役割を担う。